kanban


徐々に思い出しながら掲載していきます。




61   HJ60V-GX(通称 60:ロクマル)

  全長:4950? 全幅:1800  全高:1945
  エンジン型式 2H (3980CC)
  エンジン種類 水冷直列6気筒ディーゼルエンジン
  最高出力  115馬力(?)
  つきあい  (S60.2〜H1.4)

1.総評
鈍くさい車でした。40に比べると天と地の差くらい豪華?でした。出会いはS60年田町展開と40のフルモデルチェンジによる70の登場だった。(70を見に行ってやっぱ60だよなーて感じ)








2.購入資金?
たしか昭和59年12月のクリスマスからだった。今思うとぞっとする通信センター、予約センターの移転プロジェクト。昼は田町で工事立ち会い夜は羽田で夜勤。切り替えの時期は連日、夜は切り替え、昼は障害対応と夜の切り替え準備。ベッドもソファーも無い床面に、みんな死体のように寝てた。うちに帰れるのが3日に1度、毎日が新しい障害の続出でプロトコルアナライザー(当時はインタビュー40?)の画面を見てFF3232・・なんて16進数との戦いだった。4月になって新人が即戦力としてやってきた。何も知らずにかわいそう!そんなわけで稼いだ残業代が車に化けた。
納車の日に現金を片手に「これ!」と渡した。(もうそんなことできません)

3.消防車仕様?
この車はウインチが付いていた。付いてない車との値段の差はたしか1万円程度だった。当時はメーカー工場出荷時にかかる税金(車輌価格に含まれていた。)が、この種の車で15万円ほどかかっていた。
ところが、この車はウインチをつけると消防車仕様となり税金が軽減される。そのために10万円前後するウインチが1万円で付けられたんですよ。消防車仕様っていったい何なの?

4.デート(1)
yugureyama1
夕暮れの富士山4合目付近より本栖湖、奥に南アルプスを望む。ここからの眺めは超美的空間でちゅー。
暗くなってきて、おら帰りが恐いじょー。





5.デート(2)
fuji同じく富士山4合目より富士山頂を望む。運がよければ、こんな傘をさした光景に出会える。

 でも、この60はうねりのある登り坂なんか超苦手。ゆっくりトレースしながら走るにはいいが、早く走ろうとすると、路面状況の影響をもろにうけて車体が踊ってしまう。さらに、この車体の揺れでアクセルを一定に保てなくて、さらに揺れを冗長してしまう奴でした。













6.富士浅間神社
asama滝沢林道入り口近くにある。鳥居までのこの参道の雰囲気が好きです。
神社参りが結構好きな私(爺くさいかな?)は、時々参拝しました。何を祈ったかはヒ・ミ・ツ(いつものあれですよ。)

















7.女子高生逆ナン?
 4×4MAGAZINEという雑誌(現在OREX)を、八重洲のBOOK CENTERまで買いに行っていた。
本を買って車で信号待ちをしてると、歩道から女子高生が駆け寄ってきて「川崎まで乗せてってー」と頼まれた。その頃、大田区に住んでて近くだったしー、暇だったしー、女子高生だったしー、軽ーい気持ちで「いいよ」と言ってしまった。そしたら、「おっきい車」とか言いながら3人も乗ってきた。(おじさん鼻血ブーっな訳ねーだろ)

助手席に乗った娘がいきなり持参のテープを「聞いていい?」って言うから「いいよ」って言う間もなくテープをかけた。その頃の女子高生には人気だったかなkikkawa kohji。「ボリュームあげていい?」っていうと同時に音量は大音響となり、手足でリズムをとりだした。そんな中で後席の二人はいびきをかいて寝ていた。「なんじゃこいつら、はずれ」と思いながら憂鬱な時間は過ぎていき川崎駅に着いた。「本当は湘南に行きたいのー」という。おじさんもそこまで人は良くないよ!「マックはどこ?」知るかそんなもん(マックがマクドナルドなんて本当に知らなかった。)ハイ降車完了。バイバイ(あーしんど):これはフィクションである。

8.タイヤ
B.FのALL-TE・・・とかっていうタイヤ(最近では、一番多いと思う)を装着した。頼りのない奴でした。高速でレーンチェンジするとふにゃふにゃするし、雪道もそんなに強く無かったし、6本買って4本もパンク(全てショルダー部分)するとは運だけじゃ無いよね?
NORTHMAN TREDROKに変えました。パターンノイズはうるさいが、雪道も良く走り固めが好きな私にはぴったりでした。

9.デート(3)
寮の連中4人で万座温泉スキー場を目指した。関越自動車道を軽快に走っていると川越〜鶴ヶ島間で突然「ポーン」と心地良い乾いた音がした。!?なんだ?と思った瞬間に「ミシミシ・・・・」と音がし出してフロントガラスが割れていく。だんだん前が見えなくなってくる。鶴ヶ島インターを降りた時はもう全体に広がり見えない状態になっていた。
 取り合えづ、車内に毛布を敷きガラスを取り除いたが細かく割れてしまったガラスは結構車内や通気口に進入してしまった。真冬の朝4時フロントガラスはありません。東京へ帰るべく車で出発したが、あまりの寒さに皆凍えてしまったため、スキーウェアを着て風を遮るように後席に3人乗ってシートバックに隠れた。運転手だけは隠れるわけにいかないので、帽子をかぶりバンダナをまきじっと耐えて帰ってきた。結局なにをしに行ったのか???
 それからのこの車は、ガラス粉を完全除去出来ないためチクチクしていやだった。

10.中国自動車道
東京から長崎まで60で帰った。もともとパワー不足は否めない60であることは判っていたが、中国自動車道のあの山道はきつかった。平地は120〜130km/hで走っているが、あの長い登り坂はいつのまにか80km/hくらいに落ちてしまう。あげくには登坂車線を走る屈辱を味わってしまうのだ。中央道ではここまで屈辱的なことは無かったよ。

11.町工場
604大田区は、町のいたるところに小さな工場がある。
ある日寮の前で洗車してると、近所の町工場の親父がやってきて車の話に花が咲いた。親父にグリルガードを作ってるからと破格値で譲ってもらった。あまりの嬉しさに出張時に金沢の地酒などを土産にとどけてやった。暫くしたある日サイドステップをもらった。61に乗り換えた時もグリルガードを破格値で譲ってもらった。そんな工場もいまはなくなってしまった。








12.おとしあな
605 4WDが多くなって富士山周辺は混雑するようになったので、フィールドを福島方面へ変えた。
羽鳥湖周辺の西部林道の入り口は大牧場がありチロルの雰囲気を味わうことができる。

3月末の牧場周辺の林道は山間部は雪が残り閉ざされ、ふもとは若干の雪が残っている。この日、雪が残る道路端を選ぶように走っているといきなり凹地にはまってしまって、動けなくなってしまった。ウィンチを使っても良い方向にアンカーはなく、脱出不可能。泣いた!寒いじょー!
一人ではどうすることもできず、あきらめてふもとの農家に助けを求めた。牧場主の息子さんにFORDのでっかいトラクターで牽引して引き上げてもらった。(この農家で暖かいミルクを飲ましてもらった。おばあちゃん、ありがとう)






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