sadayanの故郷訪問(福江島の歴史)


ここに書いてることは、観光案内+私が言い伝えで聞いたことをコメントしております。そんな訳で一部正確でない場合があるかもしれません。(ご了承のうえで参考にして下さい。写真がぼけてますから、そのうち更新します。)


歴 史

「古事記」上巻に、二柱神が、御子の頃に大八島を生み更に六島を生んだと記されており、その六島の中のひとつ「知詞の島」(ちかのしま)と呼ばれた島が現在の五島であると伝えられています。

  推古天皇時代には、第二期の大宝年代の遣唐使船のあるものは、特に五島航路を選んで唐に渡ったと「続日本記」「続日本後記」などの文献に記されている。唐に渡るまえに日本最後の寄港地として入り江に入港し東シナ海横断の準備をしたそうです。中でも、第16次遣唐使船(804年)は、空海や最澄が乗船していたんですよ。五島には空海(弘法大師)にまつわる言い伝えがけっこうあります。また、玉之浦町には西の高野山と呼ばれる大宝寺があります。

鎌倉時代のはじめ、五島は松浦党の勢力下にありましたが、文治3年(1187年)平正盛の嫡子家盛が京都を逃れ、宇久島に移り住み、四代進(すすむ)公にいたって五島を統一しました。弘和3年(1383年)八代覚(さとる)公の時、念願の福江進出を果たし九代勝(かつ)公が元中5年(1388年)深江の南岸にあたる大津の「辰の口」を城地として定め、おおよそ480年間にわたって藩政の中枢となりました。

福江は五島列島の中では最大の島であり、畑も多く、また倭寇の頭目汪王(おうちょく)と交易し、明との貿易の拠点でもありましたので、島はいったいに豊かでした。

ishida 石田城(ISHIDAJYOU:福江市)

  五島藩主の居城で、第30代藩主盛公の時、黒船の来航に備えて造られた。これは日本で最も新しい城と言われ、嘉永2年(1849年)8月から15年の歳月をかけて、文久3年(1863年)に完成した。城壁の3方が海に面している日本で唯一の海城として有名です。現在は、本丸跡に五島高校、三の丸跡に資料館が建っています。
  沢口靖子がデビュー作品(刑事物語)の中で自転車に乗って、この門をくぐり五島高校に通ってました。
gotoutei 五島邸(gototei:福江市)国指定文化財

  第30代盛成公の隠殿として、石田城跡の一角に建てられました。中でも、安政5年(1858年)京都の僧善章が金閣寺の丸池を模倣して作られたという林泉式の庭は美しい。回りは樹齢百年を経た大木や大谷渡り・ビロウなどの亜熱帯植物が繁茂し緑に囲まれています。「心」の字を形どっているところから「心字が池」と呼ばれています。
buke 武家屋敷通り(BUKEYASIKI:福江市)

  石田城近くに当時のたたずまいを残している。(道路は整備されてしまった。)石垣塀は、こぼれ石と称される丸い小石を積み重ね、その両端を蒲鉾型の石で止めて造られており、外敵を防ぐために、この方式が用いられたといわれている。全国的に類をみないと高く評価されているようです。
  昔、小学校の担任がこの一角に住んでおり、良くピアノを奏でていた、妙にミスマッチだったことを記憶している。
近くには福江武家屋敷通りふるさと館があり江戸末期の福江城下町模型、写真などの展示がされている。
myoujyouin 明星院(myoujyouin:福江市)

この寺は五島の真言宗の本山で創建は806(大同元年)年、平安時代前期である。空海が帰朝の際、当山に本尊虚空蔵菩薩を安置あると聞き伝えられて参籠し、祈誓された。満願の朝に明星の奇光と瑞兆を拝され宝珠山吉祥寺明星院と名づけたそうです。
200年以上も前に描かれた本堂格子天井の121枚の花鳥絵は、狩野永徳の高弟大坪玄能の作です。鎖国下の時代にもかかわらずオウムや極楽鳥などの外国の鳥や花が描かれた貴重なもので、県の文化財に指定されています。同寺には、飛鳥時代から奈良時代の作と言われる銅造薬師如来立像(国重文)・木造阿弥陀如来立像(県重文)がある。(拝観料300円)
daihoujidaihouji 大宝寺(DAIHOUji:玉之浦町)

  大宝寺は701年天竺より来航してきた高僧道融和尚によって遣唐使渡航の要地、玉之浦の地に建立されたと伝える由緒ある寺院で、仏法をもとめて中国に渡られた弘法大師をはじめ多くの高僧がたも、この寺に立ち寄られたという。弘法大師が立ち寄られたあと真言宗に改宗したことから西高野山とも呼ばれている。
shiratorijinjya 白鳥神社(shiratorijinjya:玉之浦町)

創建は、第42代文武天皇 702(大宝2)年、祭神は日本武尊である。ここへは、最澄が入唐の際に航海安全を祈願したと言われる。最澄が無事帰国した際には参籠できず、自作の十一面観音を奉納したと言われる。この像は現在大宝寺に安置されている。
旧五島藩主崇敬の神社である。
sirodake 城岳展望台(sirodake:岐宿町)

  城岳展望台より魚津ヶ崎公園を望む。
魚津ヶ崎公園は遣唐使船日本最後の寄泊地として「肥前風土記」等に記されている。静かに海を見ていると、大陸に夢を抱いて渡った遣唐使達の姿が浮かんでくるようです。(北大路欣也主演の映画「空海」をみると遣唐使の夢と危険な状況がよくわかります。)公園はキャンプ場になっている。
jihongai 辞本涯の碑(jihongai:三井楽町)

遣唐使の最後の寄港地。804年に、ここから唐に渡った空海を偲んで建立された石碑には、日本の最果てを去るという意味の「辞本涯」という文字が刻まれており、訪れた人々に渡航者の壮絶な決意を想起させます。
後方は、岐宿町の姫島である。(映画の中でギャオスが誕生した島??現在は無人島である。)
遣唐使として旅立つ我が子の無事を祈る

母の歌(万葉集巻911791番)天平5年(733年)第9次遣唐使船の出発のとき旅立つ我が子の無事をひたすら願って詠んだ歌として万葉集上巻ノ1790番に次の長歌があり、その反歌として詠まれている代表的な遣唐使を送る歌である。
「秋萩を 妻問う鹿こそ ひとり子に 子持てりとといへ 鹿児じもの わがひとり子の 草まくら 旅に行けば 竹玉を 繁に貫き垂れ いはひべに ゆふ取り垂でて いはいつつ わが思う吾子 真幸くありこそ」
と同じわが子の無事を願う母の歌に返して、
「空高く旅する鶴達よ 霜降る野に眠るわが子を見たら どうぞその羽で包んで暖めておくれ」
と願う母の子を思う心が「辞本涯」の地に立つと更に胸に迫るのである。と記されている。
kanjiミニ勘次ヶ城(富江町)

勘次ヶ城は13世紀から16世紀にかけて明国沿岸に築かれた海賊の城と同型であり当時松浦党に属していた富江の豪族田尾氏はここを出城として海賊、密貿易で勢力を伸ばしていたと言われる。その後(1850年前後)廃城に住んでいた大工の勘次が河童とともに築いたという伝説からこの名が付いたそうだ。
現在の勘次ヶ城は、その大半を保安林に覆われて全貌を見ることは出来ず内部構造も当時からすると崩壊しているため、その原型を復元したものである。
wakou倭寇像(富江町)

東シナ海は明国に近いこともあって異国船の往来があった。この勘次ヶ城をアジトとしていた男達は、赤銅色に日焼けし、鍛えられた強靭な肉体をもち、集団生活では大きな力となって一つの目的に敢然と立ち向かっていた。また、昼夜を通しての見張りは忍耐と統制そのものである。この像はこうした「団結・実行・忍耐」を表現しているそうだ。
abunze 鐙瀬海岸(ABUNZE:福江市)

  近くの鬼岳火山から流れた溶岩が海に流れ込み変化に富んだいびつな海岸線を形成してます。
永世4年(1507年)16代領主囲公が、妹婿玉之浦納の謀反にあい辰の口城を攻められ、囲公はうまく馬で逃れたが、この地で鐙が切れ、陸路での逃避はこれまでと断念し漁船で沖合いの黒島に落ちのびました。しかし反逆党は黒島にせまり公は自刀させられたそうな。それ以来この地を鐙瀬(あぶんぜ)と呼ぶんだと。(鐙(あぶみ)って知ってる?馬にのったとき足をのっける所)亜熱帯を感じさせる所です。
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